


3月1日(土)・2日(日)の2日間の日程で「ウィキペディアタウンin日本遺産北木島」を開催しました。この事業は笠岡市の日本遺産推進のための予算をいただいて実施するもので、より地域の方々に日本遺産を認識していただき、新しい情報発信の方法を模索するものです。
去る、2015年1月11日・12日で北木島で「第1回北木島オープンデータソン」という企画が実施されています。この取り組みは当時ITCコーディネーターとして高木治夫氏を講師に「ITC寺子屋」なる事業を展開しており、その縁で京都オープンデータ実践会との交流も兼ねて実施した経緯があります。
今回の講師である青木先生もその当時の参加者であります。青木先生は2013年からウィキペデアタウンの取り組みを行われており、昨年12月にもウィキペディアタウン関係の書籍も出版されていらしゃいます。今回も高木先生のコーディネートで、ウィキペディアタウンだけでなく、3Dスキャン・FNTと幅広くテーマを設定し、その分野の専門家の方々も招聘しての実施となりました。とりわけ、3Dスキャンのテーマでは高木先生のお声掛けで、㈱パスコ様にご協力いただきいろいとろご教授いただきました。
11:00から オリエンテーション(豊浦ふれあい会館)
最初は、オリエンテーションとして、今回参加の皆さんの紹介の後に、ウィキペディア(青木先生)・3Dスキャン㈱パスコ様、FNT高木先生に概略をレクチャーいただきました。





12:00~ 昼食(ケーズラボ)

12:30~ まち歩き(光劇場)




光劇場(ひかりげきじょう)は、かつて岡山県笠岡市北木島町7887-52にあった映画館。北木光映劇、ひかり劇場、光映画劇場ともいう[1]。
昭和20年代末頃に開館し、1967年(昭和42年)頃に閉館した[2]。経営者は赤瀬光。2015年(平成27年)以降には光劇場友の会によって見学施設となっており、2019年(令和元年)には日本遺産「日本の礎を築いた せとうち備讃諸島~」の構成文化財の一つに認定された。 (2025年3月2日作成ウィキペディアより)
13:00~ 体験(喜多嬉かき)




喜多嬉かき
北木島の牡蠣は、「喜び多く、嬉しいかき」と表現し、「喜多嬉かき」と名付けられました。「出世魚」のように、「出世がき」とも言えるかもしれない。実際、「喜多嬉かき」はその成長に応じて名前が変わる。その旬は11月から3月にかけてで、さまざまな祝い事と重なる時期でもある。[17] (2025年3月2日作成ウィキペディアより)
14:00空まち歩き 湖上ステージ・北木のベニス・港劇場

湖上ステージでは㈱パスコさんが専用のドローンを飛ばして湖上ステージ全体の写真撮影を入念にされていました。
途中合流した参加者もドローンからの記念撮影も行いました。
北木のベニスやウィキペディアチームは金風呂の2軒目の映画館(OK劇場)へもお邪魔し、奥野社長の当時の様子をお聞きしました。





16:00~ データー編集
街歩きや用意された文献を参考にウィペディアの原稿づくりが行われました。




18:00~ 夕食講習会(北木西公民館)
北木西公民館へ場所を移動し、参加者交流会がおばさん会のまかないで実施されました。喜多嬉かきと鍋料理、オードブルが用意され、参加者は大満足で話が弾みました。3時間程度の交流会でお互いの親交を深めました。


宿泊は、大浦の「石切りの杜」へ宿泊されました。
2日目(3月2日)8:30~ 朝食 北木西公民館
朝食は、北木西公民館で手作り朝食がおばさん会によって用意され、美味しくいただきました。
すでに、調理室では特製よもぎ餅の準備が進んでいました。

各グループで補足取材・原稿づくり
午前中は各班思い思いのスケジュールで、午後からの報告会に向けての準備を進めました。


3Dパスコチームは、花本丁場の入り口を訪れて、トリリオンゲームのロケ地にもなったこの地を3Dにしようと、崔さんが撮影しているところです。
13:00~ 成果報告会(豊浦ふれあい会館)
田中さん3Dチーム
の田中さんから3D撮影のレクチャーで、参加者が実際に3Dソフトをダウンロードし、舞妓の人形を被写体として簡単に3Dを作ることが出来ました。


㈱パスコ 湖上ステージ3Dスキャンチーム
湖上ステージのある丁場湖にドローンを飛ばしての3D撮影を行い、そのデータを東京におくり、3Dデータで迫力のある丁場湖の様子を見せていただきました。大規模な建物や景観はドローンの写真撮影画像を処理して3D映像にします。この技術を使った北木島の活性化プランのご提案いただきました。


ドローン映像撮影・丁場調査チーム
田中さんによるドローン撮影で未知なる北木島の風景を見る事が出来、地元の方々も驚いていました。
トリリオンゲームのロケ地を舞妓人形が訪問する画像等も併せて撮影。
畑中さんの丁場の調査は赤迫さんからの聞き取りでほぼ完成し、披露されました。


ウィキペディアチーム
ウキペディアの北木島のページに日本遺産の指定文化財の内容を記述したり、体験で訪れた「喜多嬉かき」も加筆されました。また、光劇場については新しい項目で加えられました。

参加者の感想
李(京都外大修士2年)地元の方々の地域資源の保存伝承の気持ちが大変伝わりました。
大槻(高校2年生)新しい取組でしたがやっているうちに楽しくなりました。北木島にも知り合いが出来て嬉しい。


おばさん会馬越さんのお礼のことば

北木石切り唄披露
最後に地元からのお礼の意味も兼ねて石切り唄を披露させていただきました。
石やげんのうが無いので急遽、参加者の杖をげんのうとして使わせていただき、いわゆるエアー石切り唄を藤井篤さんを中心に皆で合唱して、会を締めくくりました。

15:20発の大福丸で北木島をあとにしました

資料編(随時追加します)
ウィキペディアの新規登録
日本遺産「日本の礎を築いた せとうち備讃諸島」(構成市町村は笠岡市,丸亀市,小豆島町,土庄町)には北木島に関する構成文化財が登録されている。
- 北木石の丁場
北木島の小金風呂にある花崗岩の採石場は、明治25年(1892年)に開かれ、最盛期の昭和32年には127ヶ所の丁場が稼働していた[21]。現在も採石が続いている。ここで切り出された「北木石」は、東京駅丸ノ内本屋などの重要文化財にも使われている。良質な石を求めて地下深くまで掘り進めた結果、空に向かってそびえ立つ岩壁ができた。展望台からは、その壮大な景色を一望できる。
千ノ浜地区では、かつて採石が行われていた丁場が操業を停止し、そこに溜まった雨水が湖のような美しい景観を作り出した。この場所は、採石の歴史を伝える貴重な産業遺産でありながら、山水画のような景色も楽しめる。また、採石に使われていた道具を保管する「ふいご小屋」も残っていて、近代の石材産業の姿をしのばせる。
- 北木石の石工用具
北木島では、明治時代に手作業で採石をしていた頃から、戦後に機械化が進んだ時代までの間に、採石・加工・鍛冶・運搬などで使われていた石工道具が199点収集されている。これらは北木中学校の北木石記念室に展示されている。
千ノ浜の海岸は、採石作業で出た廃土石によって埋め立てられ、その後、小規模な石の積み出し港としても活用された。採石から出た端材を使って護岸が築かれ、矢穴が残る大小の石を巧みに組み合わせた光景は、まさにその地域ならではの特徴。
- 北木石石切唄
北木島で受け継がれている作業歌は、昔、石を手作業で切り出していた時代に石工たちが山から石を切り、割る際に歌われていたもの。この歌は、現在も伝統文化として保存会によって継承されている。
- 光劇場光劇場
北木島が石材業で栄えていた時期に存在した旧映画館。1940年代の終わりから1967年頃まで営業しており、石工たちの娯楽となっていた。その当時の設備や映写機がそのまま保存され、光劇場友の会によって見学施設となり、北木島の石文化に関する映像上映などに活用されている。[22]
光劇場(ひかりげきじょう)は、かつて岡山県笠岡市北木島町7887-52にあった映画館。北木光映劇、ひかり劇場、光映画劇場ともいう[1]。
昭和20年代末頃に開館し、1967年(昭和42年)頃に閉館した[2]。経営者は赤瀬光。2015年(平成27年)以降には光劇場友の会によって見学施設となっており、2019年(令和元年)には日本遺産「日本の礎を築いた せとうち備讃諸島~」の構成文化財の一つに認定された。
喜多嬉かき
北木島の牡蠣は、「喜び多く、嬉しいかき」と表現し、「喜多嬉かき」と名付けられました。「出世魚」のように、「出世がき」とも言えるかもしれない。実際、「喜多嬉かき」はその成長に応じて名前が変わる。その旬は11月から3月にかけてで、さまざまな祝い事と重なる時期でもある。[17]
喜多嬉かきの作業風景