公務員現役最後の「よし今だ新聞」2023年12月28日号

知る人ぞ知る「よし今だ新聞」現役最後の新聞となりました。37年9か月の笠岡市役所で大勢の方々に支えられて今があるとあらためて感謝申し上げます。まあ、この後も不定期で続くとは思いますが、現役最後ということで自分自身の事やこれからの事もすこし書きたいと思います。
 この新聞は、2年9か月前に吉田文化会館へ異動してからはじめたものです。この4月に観光課へ異動になりましたが、
名前はそのまま観光KASAOKAを加えて不定期に出していました。(興味のある方はこちらをご覧ください。ワードプ
レスのフォームを吉田公民館の西山館長にボランティアで作ってもらいました。)

37年9か月を振り返って、今回は自分自身の事を書かせて下さい。

目次

そもそも何で公務員になったのか?


偶然です。金八先生に憧れて小学校の先生になりたくて、勉強してなくて、教員試験に落ちて・・。おやじが願書を出してくれていた笠岡市役所を受けに奈良から帰って運よく受かった感じです。最初は教員への未練もありましたが、最初税務課でアフター5を楽しんでいました。当時職員親睦運動会があれば夜遅くまで準備してました。妻との出会いも運動会の準備ですね。(笑)まあ、そんな事が今でも好きですからとことんやりましたね。このとことんが新しい世界をみるきっかけなんでしょうね。直ぐに組合からスカウトされて書記次長になったりしました。最初集会の司会をするのがいやでいやで・・・。専ら政策部長(製作部長?)でイベントや看板作ってました。(笑)でもそこで、自治体労働者としての「市民の税金で生活している」「住民は行政を選べない」という感覚を肌で感じていました。

本当に異例の偏った職歴


どうでもいい話ですが、税務課3年、商工観光課(3回通算13年)、元気笠岡(5年)、島おこし海援隊(9年)、農政水産課(6年)、吉田文化会館(2年)という職歴です。まあ、税務課以外は殆ど現場ですね。今「現場主義」とかスローガン掲げてますが、本当にそう考えて実践している人がどれほどいるか?それが出来る環境づくりをどれほどしているか?が大切だと思います。環境づくりがあってこそなんです。私の場合は本当にその面で環境を作ってもらえ、凄く現場で勉強させていただきました。

仕事の流儀


右上の孔子の論語の中にあるフレーズごとく、仕事を楽しむ事です。そして、とにかくNOをいわないこと、部署が変わっても仕事を引きずること。吉田に行った時は、農政での多面の取り組みが本当に役に立った。アイデアマンとよく言われるが、殆どが真似です。とにかく何でもやってみると、その過程でいろいろなアイデアが沸いてくるものです。役所の組織で仕事をあまり一緒にしないのは友達がいないのと、出来るだけ見る方向を変えたいといつも意識しているからです。(笑)

37年9か月の思い出



①父の事故死(61歳前にして仕事中の事故で即死)

願書を出してくれた父が再雇用1週間足らずで急に事故で亡くなると言ったショッキングなことがありました。働き詰めに働いた人でした。父の背中を見て育ちました。父の事を悪く言う話を聞いたことがないそんな人でした。丁度真鍋島に通い出した矢先でした。(平成10年3月)

②ネルトン事業(出会い島巡りクルージング)

平成2年ごろでしょうか。観光課で結婚対策でお見合いツアーをしたことがあります。バブル絶頂期で1事業800万ぐらいの予算でした。200人の女性の募集に600人が応募してくれたことがありました。まあ、こんな事業続きません。豪華客船で瀬戸内海をクルーズしたい女性が来ただけなんでしょう。(笑)ここが島へ関わる原点でした。

③島おこし海援隊(島の運動会・島づくり海社)

お金より「人材」を島へ投入してほしいという住民要望に応えって志願者3人の一人として島へ渡って「島の人と一緒に汗をかいた」その経験が今の仕事の原点となっています。地域おこし協力隊もいいのですが、地域を守る自治体職員として地域と一緒に汗をかかないと物事は前にすすみませんね。そして、島づくり海社として住民主体のNPOの設立で雇用が発生し、継続的な島づくりへと繋がっています。島づくり海社の鳴本理事長と当時10年がんばろう!と誓って、何と10年後には地域づくりの日本一「地域再生大賞」を島づくり海社が受賞しています。

④吉田文化会館館長

2年間という短い期間でしたが、コロナ禍でもありほとんどの事業が中止される中、結構小さなイベントを数打ってました。今だったらもうこらえてくれと言われそうですが、当時はやるための方法を考えるだけでも面白かった。2年間に3件の孤独死があり、人権も必要だけどコロナで疎遠になりがちなコミュニティの活性化が必要と思って仕掛けてました。農業と福祉の融合を考え、実践してました。地区のために動くのは当然ですが、地区外のために館長が動くことで文化会館が隣保館としての役割を発揮できると考えていました。(理解されませんでしたが・・。)

⑤南三陸復興支援(ぼうさい朝市)

全国の商店街のつながりで南三陸の支援に笠岡からも30回ぐらい行きました。あの惨状を見ることは行政職員としては必要不可欠だと思いました。そして、南海トラフ地震津波への対策として南三陸の教訓を活かすことをずっと考えていました。今年、令和初の全国ぼうさい朝市の取り組みが最後出来てほっとしています。日ごろからの顔の見える活動、その繋がりを次の世代に継続する取り組みが本当に必要だと考えています。

これは、尊敬する95歳の四角法の佐藤圭一先生からいただいたものです。
「与えるを思わず、受けるを忘れず」何かにつけて「〇〇してあげたのに・・・。」と言われる方が多いように思います。「そんならせにゃーええがー」といつも心の中で思っています。
しかし、自分自身がしてもらった事に感謝を忘れない気持ちを持ったら、自然と「してあげたのに・・。」と思う事も少なくなると思うのです。
結構、表裏一体の事って多いですよね。
よく言われる他人は変えるのは難しいけど、自分は変えられる

島へのこだわり

何でそこまで島でがんばれるの?
こう聞かれたことがあります。私の島への取り組みの原点は島めぐりクルージング(ネルトン)です。第2回目の島の若者対象のネルトンで12組のカップルが成立し、そのうち3組がゴールインしました。喜んでいたのですが、その後3組とも結婚の条件が「島を出る事」ということでした。一人は当分神辺から2時間かけて島の工場へ通勤していました。この事業で当事者の実行委員が殆どカップルになり、それを応援する「おせ」の実行委員が親身になってお世話してくれる姿は島づくり大きな可能性を感じました。そんな、島の何も知らないクセに、結婚の条件として「島を出る事」が許せなかったのです。その後、島の大運動会、島おこし海援隊と私の中でこの島は不便というだけのイメージを払拭したい。この流れを反対にしたいと単純に思ったのです。当時は、パソコン教室を島でする、ヘルパーの2級講座を陸より先に島でするといった感じです。悔しい原体験です。

島は課題先進地、25年先取、25年の実績
 現在の笠岡市の高齢化率は25年前の島の高齢化率です。島では25年の課題の先取、25年の取り組みの実績があるのです。この25年の取り組みの実績は必ず陸地部でも活かせるはずです。例えば介護事業です。参入する事業者がいないので島民がヘルパーの資格をとってデイサービスを立ち上げました。そして、親の介護が必要になって来た時には自分の親を預けて仕事としてサービスを行っていました。島づくり海社は私がいたころは外向けの打ち上げ花火的なことが多く、目立ちはしてましたが、島民が本当に動き出すと、地域の課題であった介護事、最期まで島で暮らしたいという高齢者の要望に応える形での事業展開にそして雇用も増え、現在では雇用数う50名、予算規模も1億円を超える組織になっています。行政頼みではない、地域住民組織の構築により第2市役所的な取り組みができるこの仕組みが他の模範ともなっています。

こぼれ話「海援隊指をとばす!」
「しまべん」事業も思い出の一つです。平成15年頃でしたか?NHKのおーい日本の企画で各島の弁当を創作しようというプロジェクトが行われ、生中継の日に3つのコースで600名の「しまべん」を食べるツアーを実施しました。これもすさまじいツアーでした。山本譲二さんが司会役で最後北木島では歌も披露。
実はその1週間前に大けがをしてドクターヘリで川崎医大へ運ばれました。石を運んでいる時に指を石に詰めてとばしてしまったのです。何と!その1週間前に島民対象のドクターヘリの訓練を私がしており、最初に使ったのが私自身という落ちです。
けが等は日常茶飯事でした。真鍋島では草刈りの時に笹が耳に入って鼓膜が破れたり、白石島では強風時に海上タクシ―で帰ろうとして2月に海に落ちた事もあります。まあ、話ネタはつきません。

まちづくり協議会に想う



平成24年からまちづくり協議会事業が展開されています。私は、当初から六島の担当職員になり、退職の年まで約12年やり続けました。六島はこの間毎月1回の定例会議を欠かさず継続しています。6年前から役員のメンバーが一新し、2人のお母さん40代が会長・事務局を担当し、子育てとともにまちづくり活動を推進してくれています。よく言われますが、人間関係を作って物事を前進させて行くためには最低10年はかかると思います。それぐらいの気持ちで地域に関わる事が必要だと思っています。それから、地域の人間関係まで口出しを出来るようにならないと当てにされる担当職員とは言えません。海援隊の時の反省点があります。当時、60代の方を中心に活動に取り込んでいましたが、20年経って80代次の担い手が確保出来ないのが現状です。あの時に、若手にアプローチして事業に関わってもらって、その若手をサポートしてれば、子育てに手が離れた時に担い手として活躍してくれてるのではないかと考えたりしています。

吉田での多面の取り組み


吉田文化会館の2年目から多面的機能支払いの取り組みを吉田の宮地池水系の約8haで行いました。文化会館館長としてその事務局を担うことで、地区外にも貢献したいという想いと文化会館でのイベント事業の予算作りを兼ねていました。多面的機能支払いは事務が煩雑でなかなか地域では取り組みにくい事業ではじめると5年継続しないといけないという5年しばりもその一因です。
吉田文化会館1年目から約2反5畝の田んぼを耕作することになり、空き時間で地域の農業者の皆さんにいろいろ教えてもらったり、機械を持っている人に頼んだりして初年度は8俵の米の収穫がありました。初めて自分で収穫したお米の味は今でも忘れません。
吉田でも耕作放棄地が増えて、特定の人に耕作を依頼し負担が増大しています。少しでもその人の負担を和らげて少しでも長く耕作を継続させて欲しいという想いで多面的機能支払いの仕組みを使って、環境整備をしていこうという目的と少しでもお米を高く売って収入を上げようということで取り組みをはじめました。
この仕組みはあらかじめ対象エリアあたり一定の予算が国からおりて、決められた保全活動を行うと時給1000円程度の賃金が払える仕組みです。
この制度を利用して農業に関わる人を増やしたいという想いから米を使った「子ども食堂」「餅つき大会」等で子どもと親世代に参加していただき交流するものです。
2年目に私が観光課に異動してどうするか?という話も喧々諤々しましたが、5年縛りとパソコンソフトによる事務の効率化で事務局長を地域の方に交代しいい形で継続してます。勿論、いまでも草刈り作業には参加しています。この事業をまちづくリ協議会等の事業と連携させることで、福祉×農業、教育×農業という地域の農業や景観を地域で守る仕組み作りに繋がると考えています。農業に大勢の方々が関わる場が必要なのです。

不屈の男「佐藤圭一」四角法全国展開中


島でミニコミ誌を作ってたころに県のミニコミ誌コンク―ルに応募し、「まなべしま新聞」「ふるさと新聞白石」「北木ホームヘルパー新聞」「しまかぜ(笠岡諸島全島新聞)」がことごとく最優秀賞を総なめしていたころ、その審査員だった佐藤圭一先生と知り合い、島でミニコミ誌の勉強会をしたことがあります。
昨年、その佐藤先生から四角法という字がきれいになる方法の特許をとったので、笠岡で講座が出来ないかとの依頼がありました。勿論二つ返事でお受けし、吉田文化会館で40名もの方々に受講いただきました。
それから直ぐに、不慮の事故に会って3か月生死の間をさまよっていたと今年聞きました。それも山陽新聞のちまたの欄でした。そして、「大変でしたね、保養に島へご案内しますよ!」と先生にメールを差し上げました。返信が「それより、講座をして欲しい」と。
今年96歳の先生から「一億総美文字化」のために講座をしたいというその想いに心打たれ、組合にお願いして講座をしていただきました。
岡山ではなかなか広がらない中、朝日新聞(全国紙)で取り上げられて問合せが殺到しているとか。
今では四角法の笠岡支部長として講座の開催相談、テキストの販売をしています。
佐藤先生は既に4年後の100歳の誕生日コンサートを企画しているとのこと、益々弱音は吐けないとおっしゃています。95歳の先生のこの気力に刺激され、これから私も新しい取り組みをしていこうと決心したと言っても過言ではありません。

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